倶楽部の歴史

倶楽部の誕生

北海道で初期のゴルフクラブ誕生

1928年(昭和3年)4月15日に銭函の地にできた3ホールのゴルフコース。
これが小樽カントリー倶楽部の始まりでした。
また、北海道におけるゴルフの歴史の始まりでもありました。倶楽部創立後、銭函に3ホールのリンクを造成、5月には6ホール、9月には9ホールとなった。
しかし、当時のコースは、牧場に隣接した非常に簡素なものであり、時には打ったボールを牛に食べられてしまうという、珍事も起こった。
この頃に撮影したと思われる写真にも、牛がコース内で草を食べているものがあり、当時の牧歌的な雰囲気が感じられる。
1928年 銭函に3ホール造った日 一番右が佐藤棟造
1928年 銭函に3ホール造った日 一番右が佐藤棟造
1928年 当時の6番ホール
1928年 当時の6番ホール

日本ゴルフ聯盟の加入

1935年(昭和10年)4月8日には、日本ゴルフ聯盟(現:日本ゴルフ協会)への正式加入が承認された。

新コースの着工と完成

戦争も終結し、1952年(昭和27年)10月29日倶楽部再建後、再び28年5月9ホールでの再開することが出来た。その後、第1期ゴルフブームなどで、周囲のゴルフ場が、立派な倶楽部ハウスと18ホールを有する中、当倶楽部は依然として、戦前のままの倶楽部ハウスと9ホールのコースだけであり、会員の18ホールのコースを欲する気持ちは、悲願ともいうべきものになっていった。 昭和47年6月、国有地の払い下げを主とする、9ホール増設案を断念し、民有地買収による、一挙に18ホールの新コース建設に踏み切ることになった。しかし、全国的な土地ブームの時代の中、買収への悪影響を恐れ、当初計画は部外秘として扱われる事になる。 新コースの設計は名設計者として名高い安田幸吉氏に依頼し、48年夏に着工、その間オイルショックによる資材の高騰などに悩まされたが、昭和49年6月、新倶楽部ハウスと共に、悲願であった18ホールのコースをオープンさせた。
前右より2人目が設計者 安田幸吉氏
前右より2人目が設計者 安田幸吉氏
当ゴルフコースの用地は、地形がフラットで、その上樹木が少なく、どのホールも同じようなものになりがちなため、如何に各ホールの特徴を出すかという点について、一番の苦労があった。樹木でも多くあれば特徴もつけ易いのですが、樹木が少ないため、数少ない樹木を生かし、それに合わせてホールを変更しながら最小限の伐採で造成しました。 樹木の列が植林防風林帯であったので、ホールの向きに合うところもあるが、変な方向に向ったりしているので、伐採を検討する場合、その場所によって非常に難しく、樹木の少ない用地の伐採の難しさを痛感しました。 1つの池でもいろんな性格目的を持たせながら、そのホールの特徴にむすびつける様に考慮して造成しました。いろんな苦労がありましたが、私としては一応満足なものが出来たと思っています。とコース設計者 安田 幸吉氏はのちに語っています。
左側1番ティグラウンド 右側18番Bグリーン
左側1番ティグラウンド 右側18番Bグリーン
9番フェアウェイ張芝工事
9番フェアウェイ張芝工事

創立50年記念事業による日本プロ選手権大会の招致

1978年(昭和53年)7月22日、倶楽部創立50周年を記念して、記念式典ならびに競技会が開催された。
出席は関係諸団体代表等80名を越え、50周年の式典に相応しい盛会となった。
また、同年の8月17日から20日まで日本プロゴルフ選手権大会が当倶楽部新コースで開催され、小林富士夫と中嶋常幸が281のタイ・スコアとなり、プレーオフの結果、小林富士夫がタイトルを獲得した。
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